セカンドベストはなんだ?

最善の策が取れなくても良い。最善を尽くすことがダイジ。

なぜ「世界で2番目に大切なこと」を探求するのか?

イントロ

その昔、亀田興毅がみのもんたの朝のニュース番組でこう言っていた。
「メロンパンをな、レンジでチンすると、ふわっふわっになってめっちゃウマいで。」
電車に1本でも早く乗りたいと急ぐほど忙しい早朝に、この情報にどれだけの価値があったろうか?
朝に限ったことじゃない。
「メロンパンをレンチンするとフカフカ」って伝えるのがテレビという公共の電波だとしたら、とんでもない毒電波だ。

俺は真逆でありたい。質実剛健でいたい。
俺の思考は常に日本刀(それも実用的で装飾を排した白鞘の長ドスだ)のように研ぎ澄まされ、重く、鋭くありたい。

どうしたらいいのか?

そのためには、刀と同じく、思考も精錬し、鍛造し、研ぎあげねばならぬ。
本質を求めて、思考を重ねること。「本質思考」が必要。

ソクラテスは「対話」を哲学の手法としたが、「対話」のなかでも「自己との対話」が最も純粋だとした。
このことを、「本質思考」という言葉で私は解釈し、このブログで実践しようと思っている。
たとえば、Scansnapは便利だが、それを勧める記事を書くこと(そしてそのために思考すること)は、無意味だ。
なぜなら、私はすでにScansnapを使っていて、その便利さを十分に体感しているからだ。
他人はどうであれ、自分にとって分かりきっていることを書くのは、自分にとってなんら価値がない。*1
他人からの承認されると嬉しいという作用等は認めるが、それが目的ならばソーシャルメディア(mixitwitterfacebookなど)に投稿すればいい。
私は、このブログを本質思考を実践するツールとして使いたい。(ここでいう「ブログ」が、プログラムの機能は同じでも芸能人のアメブロ等とはまったく別物であるのは言うまでもない)

なぜ世界で2番目か?

本質思考を実践するブログならば、なぜ「世界で2番目に」というタイトルなのか?
なぜなら、「世界で1番大切なこと」は「生きること」だからだ。
無病息災、健康な生命を維持しているだけで、人生は肯定されるべきだ。
(厳密には、「他人に害悪を成す生き方」、「安楽死」など、極端な領域では保留すべき要件はあるが)

1番目に大切なことは簡単に見出すことができるが、2番目はどうか?
私は「より善く生きること」が「2番目」だと思う。
つまり、「人間はまず、生物として健康であることが一義的に必要、そしてその上で人間としてより善く生きるべきだ」という考え方から出発している。

なぜ読者は「俺に限る」のか?

「健康である」ための方法は、同じ生き物であるからして、ほとんど誰しも共通している。(お酒は飲みすぎてはいけない、適度な運動、バランスの取れた食事etcなど)
一方、「より良く生きる」ためには、「己が何を為すべきか」という問いに答えなければならない。
己が何を為すべきか?
そんなものは、十人十色、人それぞれ違うに決まっている。
だから、己が何を為すべきかを探求し、思考の森を巡り歩く。
その思考の記録を、ヘンゼルとグレーテルのパンくずのようにブログで残し、自分自身が迷ったときの道しるべとする。
自分にとって身近な、固有の事象について悩み、自分の人生をよりよくするために備忘録として書き残すのだから、正当な読者は「俺に限る」。
ただし、それを読んだ誰か(おそらく似たような事象に悩んでいるであろう)が、私の記事を読み、いくらかでも為になったのだとすれば、こうして公開する価値も生まれてくる。
そういう期待から、あえて悩みつ書きつし、公開している。
google-analyticsのおかげで、その期待は現時点では棄却域にあるけどね。

*1:といいつつ、リンクは貼るけどね。