セカンドベストはなんだ?

最善の策が取れなくても良い。最善を尽くすことがダイジ。

『ホッテントリ』を書くのは、そろそろ辞めないか?そのほうが身の為だ。

結論

日本人は起承転結が好きで、結論を出すのが遅い。
まず結論から言おう。
いわゆる『ホッテントリ*1』と呼ばれるブログ記事は、はてなブ目当てのポピュリズム(大衆主義)に毒されている。
しかし、議論や思考を深めるために必要なのは、大衆ではなく自己との対話である。
つまり、読んで思考が深まるような価値のある記事・ブログとは、自分を最上の読者とするべきだ。
一見、当たり前のように思われるが、コマーシャリズムだらけの情報社会にあって、「ウケ狙い」や「釣り」を一切排する「ポピュリズムの克服」は、むしろ自覚がなければ貫くことができない荒行だ。

なぜ私は浜田正造か

このブログの筆者は、「浜田正造」と名乗っているが、
「1988年東京都江東区生まれ。現在、東京大学教養学部4年。
4月からは某広告代理店でコピーライターとして働く予定。
小学1年生のとき、豊洲で潮干狩りしている最中にエメラルド星人に捕獲される。
大脳視床下部にセンサーを埋めこまれ、以来、毎月送られてくるエメラルド星からの指令を遂行している。
今月の指令は『ファーブル昆虫記を買い占める』こと。
趣味は天城越え。」という、脳に直接ペンを握らせたとしか思えない電波文であり、そのプロフィールの信憑性は極めて低い。
それでも、なぜ「名無し@匿名匿住所」にせず、あえて一見実名っぽいプロフィールを公開しているかというと、
ずばり仮想と現実(匿名と実名)の間でゆらぐ中間の立場から、ブログを書きたかったからだ。

実名か匿名か

そもそもブログには、実名を公開しているブログと匿名(ハンドルネームを含む)のブログに分けられる。
ブログは、実名と匿名、どちらで書くべきか?
答えは、「エッセイ(随筆)は実名、コラム(批評)は匿名が適している」だ。
また、これは「有名人は実名、市民は匿名が適している」と言うのと同値である。

なぜならば、「どこそこでアレを食べた、コレをした」というエッセイの類は、人物像が特定されているからこその面白みで、有名人であるからこそ興味もわく。匿名では何の意味もない。
一方で、コラム(批評)はどうしたって上から目線で物事を論じざるを得ない。
そうすると、どうしたって角が立つ。いくら正当性のある批判であっても、「オマエモナー」というしっぺ返しが来る。その批判のしっぺ返しに、匿名性は実に役立つ隠れ蓑になる。
逆にこの匿名性は2ちゃんねるの批判としてよく挙げられるが、テレビの評論家のごとき実名の有名人の発言・批評は、あらかじめ批判のしっぺ返しを計算済みのポジショントークしかできていない。実名性と内容の濃い批評という相反する要素を高い次元で両立させた人物は、小林秀雄など数えるほどしか私は知らない。

もっと卑近な例として、Scansnapをあげてみよう。
電子書籍の自炊に、あふれる紙の資料の整理にと、「リリンの生み出した文化の極み」と称すべき神機Scansnapであるが、私がいくら紙数を割いて褒めちぎったところで、大して意味はない。
だが、ライブドアホリエモンこと堀江貴文が「Scansnap買いました。これいいよ」と一言ブログで紹介*2するだけで、「ホリエモンもオススメ」という箔がつき、その反響も大きい。

無名の実名ブログ流行の衝撃

ここまで、「ブログは実名で書くべきか、匿名で書くべきか?」という問題に対して、
「もし筆者が有名人でエッセイを書くなら実名公開、コラムを書きたいなら匿名」という一般論を述べてきた。
では、有名人でもないただの人が、エッセイを書くというケースはどうだろう
一般的にいえば、ただの人が書いたエッセイなど読む価値はない。書き手にとってもわざわざブログで書く必要がない。せいぜいmixiやらtwitterに投稿して、内輪で楽しむくらい。
だが、現実は奇妙なもので、「ただの人が実名晒して書いたエッセイブログ」がなぜか脚光を浴びたりする。
実名晒して人気になったブログの一例として、はあちゅう(伊藤春香)や芦田太郎などがある。
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無論、「ただの人が実名晒して書いたエッセイブログ」のすべてが人気になったわけでなく、そのほとんどのブログは上述の一般論通り、閑古鳥が鳴いている状態。あくまで数人がちょっと人気になっただけであり、部分的現象を全体に適応してしまうという「宝くじで大金持ちになる」、「ベンチャー企業で夢をつかむ」と同じ幻想に過ぎない。
また、「ただの人が実名晒して書いたエッセイブログ」がヒットしたことは、「もし筆者が有名人でエッセイを書くなら実名公開、コラムを書きたいなら匿名」という一般論の反例として成り立つには不十分である。
「女子大生の就職活動を赤裸々に書く」など、週刊誌の見出しのような大衆の興味を引く要素を盛り込み、その後、「世界1周する」などタレント性を打ち出すことで、「ただの人」から「有名人」へ成り上がった、というカラクリがあるだけだからだ。

ブログを書いて有名人になる

ただ、興味深いのは、何でもない人のブログがヒットする現象によって、「ブログを書く」という行為に「有名人になれる」という可能性を付け加えられたことだ。
その可能性を夢見るからこそ、人々はこぞってブログを書き、人気を得ようと面白いネタを考え、「ホッテントリ・メイキング」に精を出す。
ホッテントリ」といえば「【ライフハック】のように生活の質を高める役立つ情報」というイメージがあるが、実は「記事を投稿した時点から短期間で大量のはてなブックマークを獲得したもの」というアルゴリズムで抽出されているため、「ホッテントリ」の根底にあるのは、テレビや週刊誌といったマスコミと何ら変わらないポピュリズム大衆迎合主義)なのだ。

ポピュリズムの価値

注意して欲しいが、ポピュリズムに一切の価値を認めていないわけではない。
ポピュリズム、そしてそれに類するもの(コマーシャリズム、エンターテイメント、エロ、ナンセンスetc)には「面白い」という恐るべき価値がある。
「面白い」こと、それ自体は良いものだ。辛い時間を楽しく、幸せにしてくれる。
問題なのは、ポピュリズムには「面白い」という価値以外には、ほぼ何も生み出さないということ。
我々が、テレビなりホッテントリを見ることに費やした時間に対して、いったいどれだけの価値があっただろうか?
それらに費やした時間が、おのれの人生にかげがいのないと思える時間となったことがあっただろうか?
時間の投資効率を考えると、読書なり勉強なり仕事なり、もっと良い時間の使い方がいくらでもある。
「人生に無駄な寄り道がない」というのは事実だが、テレビばっかり見るというのは限りなく無駄に近い道草の喰い方だ。

今を生きるとは?

こういった「時間の使い道を考えよ」という話をすると、
よくいる馬鹿な高校生は、
「そんな不確実な未来よりも、二度と戻らない青春の『今』を楽しみたい」
とほざく。
はっきりいって、「今を生きる」と称して好き勝手に遊ぶ生き方は、
「今を生きている」ように思えて実は、「過去を消費」している。
遊び呆け、楽しんでいる時間はその瞬間に過去となり、
その価値は思い出として過去を振り返るときだけ存在する。
いざ何かをしようと志したとき、何も役立つものを残してはくれない。
本当の意味で「今を生きる」とは、未来を目指していく生き方だ。

「未来を目指す」生き方とは、どういうことか?
その答えは、ひとりひとり異なる。
なぜなら、「将来のために、今、なにをすべきか」は、現在の自分の状況、そして目指す未来という、それぞれ個人に固有の環境から導かれるものだからだ。
そして、答えを導くためには、自分を客観的に分析し、自己との対話を重ねていくのが正攻法だ。
神からの啓示を待っていたり、他人に心酔して導いてもらおうなどという、安直な方法に頼るのは賢明ではない。
「天は自ら助くる者を助く」のだ。

ふたたび結論

より良い人生を送るには、自己との対話が必要。
そのためのツールとして、ブログを書くならば、大衆のウケを狙った文章を考えようとすると、自分を磨く上では害悪になる。
ホッテントリを書きたいというポピュリズムを克服し、自分という読者に語りかける文章こそが、本当に価値のあるブログなのだ。

以上、非常に長々とポピュリズムを克服すべき理由と、自分磨きをしたい理由を述べたが、
そもそも、この2つを達成するために文章を書きとめるなら、誰にも見せない日記で十分なのだ。
それでもボクはブログで公開したいという気持ちが、まったく不思議なことに存在している。
そんなココロの不思議、あるいは未熟さを抱えた状態を表すために、仮想とリアルでゆらぐ珍奇なプロフィールをつくった。
そして、そんなゆらいだ状態から出発して、このブログを書いていこうと思う。

*1:ソーシャルブックマークサービスはてなブックマーク」で人気のウェブページ。ホッテントリを書くと、一気にたくさんの読者を集めることができる。

*2:[http://ameblo.jp/takapon-jp/entry-10537498625.html:image]